暴力はどこから生まれるのかな?
それは多分、小さな差別から。
男の子だから。女の子だから。
頭がいいから。ちょっと鈍くさいから。
スポーツ万能だから。運動神経ないから。
お金持ちだから。貧乏だから。
大企業だから。中小企業だから。
強いから。弱いから。
権力があるから。ないから。
どれも半分無意識に考えていることだし、優劣が振り分けの基準。
でも、それってそもそも振り分けて考える必要のあることでしょうか?
優劣を基準にすると、どうしても他と比較をすることになります。
一見とても客観的な評価のようですが、実は根拠が曖昧だと思いませんか?
性別ですら、最近は外見と実際が違う人もいるのです。
そうして、優れているとされるグループと劣るとされるグループに分けられていき、
仲間外れが起きてきます。
その人の自身の価値は関係なく。
そして「仲間外れ」は、すでに暴力そのものです。
これからの変化の速い社会では、今までの価値観では判断できないようなことが
多く出てくると思うのです。
新型コロナが落ち着いても、以前と全く同じ行動はできないでしょう。
物事の判断基準が複雑になってくると、人は混乱するのではないでしょうか?
そんな時、基準を外して対象の人や物事を丸ごと受け入れてみる、という選択はどうでしょうか?
このやり方ですと、暴力は生まれにくいと思うのです。
人だって、物だって、多面体でできています。
見る角度によって、違う情報が得られるのです。
優劣や好みでする判断は、対象を良いか悪いかの2つにしか分けられない。
(どちらでもない、という判断もありますが意味がないと思います。)
しかも基準が曖昧だから、その日の気分で判断がコロコロ変わったりする。
けれども、対象を受け入れてしまうと、良いところも悪いところもわかったうえで
程よいバランスを取りながら調和していくことができます。
これからの社会は、圧倒的な情報量とスピードで変革が起きてきます。
リアルに人と会うことは貴重な機会となっていき、なんでもネット上でできるようになります。
そうなると、自分のやりたいこと、価値観などゆるぎないものを持っていないと
時代の波に翻弄されて
不安になりイライラが募るでしょう。
ここで不満を人にぶつける。これも暴力です。
たくさんの情報を多面的に眺めて必要なことだけに絞って取り入れることが出来れば、
時代の波をコントロールできる。
もっと主体的に生きることが重要です。
多分、暴力をふるう人は時代に取り残されていき、
ますます不満を抱えて生きていくことになるでしょう。
思い通りにならない、社会が悪い、会社が悪い、誰かに陥れられたんだ…。
こんな人には、だれも関わりたくありません。
外見上は穏やかで虫も殺さないような顔をしながら、
心の中は不満でいっぱい。
だから家族に当たり散らす。
本人は上手に隠しおおせていると思っていますが、
実はそんなことはありません。
被害者は理不尽であることを知っています。
周りの人も違和感を覚えることがあるでしょう。
暴力をふるう人は、自分の価値観に従って物事を判断しているのだから、
主体的だ!
と反論すると思います。
でも、どう思われますか?
優劣の判断は基準が曖昧です。
本人の思い込みかもしれない。
いつも正しい判断ができる人はいません。
間違えたら修正が必要です。
しかし基準が本人の論理にあるので、間違えたことを認めない。
暴力を正当化する人は、いつも自分の判断が正しいと思っています。
そこに修正など入り込む余地はありません。
たとえ判断が気分によって変わることがあっても
いつも自分に正義があると信じています。
家族は壊れることもあるのです。
実態が崩壊しているのなら、放棄すべきです。
これからは主体的に自分の人生を生きる時代です。
パートナーには、パートナーの人生があります。
お互いにそれを尊重しながら、助け合いながら歩んでいく。
これがあるべき姿だと考えています。