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思うこと 面白かった本

「本」について

 この10月は散々なひと月でした。
実は転職をして心機一転頑張るぞ! と思っていたのに
1週間したら、細菌性腸炎に罹り熱がでてしまい、1週間寝込んでしまった。
けれども実は1週間も寝ていたのに、のどだけは治らず咳と声枯れがひどくて
出勤してもクタクタ…。
それに咳というのは、出始めるとしばらくで続けるし、コロナ禍の影響で
少しでも咳き込むというと、冷たい視線、そっと席を立つ隣の人、など
本当に辛いものでした。おまけに咳き込むと体力を消耗します。
なかなか改善せず、テレワークになったのを幸いに、昼休みを勝手に延長して
耳鼻科に行き、そこでの薬が効いてずいぶん楽になりました。
よほど、体力が落ちているのだなと実感しました。
疲れがたまっていることにも無自覚でしたが、本当は体は悲鳴をあげていたのかもしれません。
体力や体調を過信せず、これからは労わりながら生きていかなくては、と改めて思った次第です。
皆様も、ぜひご自身の体の声に真剣に向き合って欲しいと思います。


タイトル:言葉の贈り物
著者:若松 英輔  2016年11月
株式会社 亜紀書房 ISBN:9784750514901

この本はタイトル通り、言葉についての考察がメインに語られています。
そして「言葉」と深く関係する「本」にも触れていて、これにハッと驚かされました。
著者のお父さまはずっと「本」を収集するのが趣味で、
晩年目が悪くなっても購入するのをやめなかったそうです。
収集 というくらいですので、1冊や2冊ではなくひと月に数十万円…。
子どもたちで話し合ってやめさせようということで、著者がお父さまを説得したそうです。
けれども、やめなかった。
後年、その話をふと友人にしたら、「本」そのものの存在が大事だったのでは、と
言われたそうです。
「本」はその中身や装丁などに目が行きがちですが、
「本」そのものが語っていることもあるのでは、いうのです。
「本」のたたずまい、「本」の匂い、その存在感…。
なるほど!と思いました。これは電子書籍にはない魅力でしょう。
多くに人が関わって出来上がる「本」の醍醐味でしょうか。

「本」は読まねばならぬ、と思い込んでいましたので、目からうろこ、でした。

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思うこと

コミュニケーションについて

 最近は、コロナ禍の影響でコミュニケーションの方法がメールやチャットなど
文字でやり取りする機会が、とても増えました。
顔を合わせてリアルに言葉を交わすことに比べて、文章でのやり取りだと話題の前提として「物事」の認識の違いが、誤解を生みやすいと感じています。
「会話」の時以上に、わかりやすく、理解しやすく、共通の認識をしているか、注意を払う必要があるように思います。
つい、自分の考えと同じだと思い込んで、短い言葉での文章でやり取りをしていると、思い込みの罠に嵌まり、伝えたいことが伝わっていないということが起こります。
また、メールやチャットだとコミュニケーションの途中で他の用件に気を取られたりして中断してしまうと、返事が遅くなることも多い。
けれども顔を合わせて話をするときには、きちんと会話が終了しなければ、他の用件には手をつけられない。態度や表情から、話の理解度もわかりやすいように感じます。
一方、文字での「会話」は、記録されるので、言った言わない、はすぐに確認できて、そこは便利です。コミュニケーションも手段が増えたのだから、使い分けができると良いですね。


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思うこと

暴力はどこから?

暴力はどこから生まれるのかな?


それは多分、小さな差別から。
男の子だから。女の子だから。
頭がいいから。ちょっと鈍くさいから。
スポーツ万能だから。運動神経ないから。
お金持ちだから。貧乏だから。
大企業だから。中小企業だから。
強いから。弱いから。
権力があるから。ないから。
どれも半分無意識に考えていることだし、優劣が振り分けの基準。
でも、それってそもそも振り分けて考える必要のあることでしょうか?

優劣を基準にすると、どうしても他と比較をすることになります。
一見とても客観的な評価のようですが、実は根拠が曖昧だと思いませんか?
性別ですら、最近は外見と実際が違う人もいるのです。
そうして、優れているとされるグループと劣るとされるグループに分けられていき、
仲間外れが起きてきます。
その人の自身の価値は関係なく。
そして「仲間外れ」は、すでに暴力そのものです。

これからの変化の速い社会では、今までの価値観では判断できないようなことが
多く出てくると思うのです。
新型コロナが落ち着いても、以前と全く同じ行動はできないでしょう。
物事の判断基準が複雑になってくると、人は混乱するのではないでしょうか?
そんな時、基準を外して対象の人や物事を丸ごと受け入れてみる、という選択はどうでしょうか?
このやり方ですと、暴力は生まれにくいと思うのです。

人だって、物だって、多面体でできています。
見る角度によって、違う情報が得られるのです。
優劣や好みでする判断は、対象を良いか悪いかの2つにしか分けられない。
(どちらでもない、という判断もありますが意味がないと思います。)
しかも基準が曖昧だから、その日の気分で判断がコロコロ変わったりする。
けれども、対象を受け入れてしまうと、良いところも悪いところもわかったうえで
程よいバランスを取りながら調和していくことができます。

これからの社会は、圧倒的な情報量とスピードで変革が起きてきます。
リアルに人と会うことは貴重な機会となっていき、なんでもネット上でできるようになります。
そうなると、自分のやりたいこと、価値観などゆるぎないものを持っていないと
時代の波に翻弄されて
不安になりイライラが募るでしょう。
ここで不満を人にぶつける。これも暴力です。
たくさんの情報を多面的に眺めて必要なことだけに絞って取り入れることが出来れば、
時代の波をコントロールできる。
もっと主体的に生きることが重要です。
多分、暴力をふるう人は時代に取り残されていき、
ますます不満を抱えて生きていくことになるでしょう。
思い通りにならない、社会が悪い、会社が悪い、誰かに陥れられたんだ…。


こんな人には、だれも関わりたくありません。
外見上は穏やかで虫も殺さないような顔をしながら、
心の中は不満でいっぱい。
だから家族に当たり散らす。
本人は上手に隠しおおせていると思っていますが、
実はそんなことはありません。
被害者は理不尽であることを知っています。
周りの人も違和感を覚えることがあるでしょう。
暴力をふるう人は、自分の価値観に従って物事を判断しているのだから、
主体的だ!
と反論すると思います。
でも、どう思われますか?
優劣の判断は基準が曖昧です。
本人の思い込みかもしれない。
いつも正しい判断ができる人はいません。
間違えたら修正が必要です。
しかし基準が本人の論理にあるので、間違えたことを認めない。
暴力を正当化する人は、いつも自分の判断が正しいと思っています。
そこに修正など入り込む余地はありません。
たとえ判断が気分によって変わることがあっても
いつも自分に正義があると信じています。


家族は壊れることもあるのです。
実態が崩壊しているのなら、放棄すべきです。
これからは主体的に自分の人生を生きる時代です。
パートナーには、パートナーの人生があります。
お互いにそれを尊重しながら、助け合いながら歩んでいく。
これがあるべき姿だと考えています。